トーゴ共和国の歴史

様々な困難を乗り越えてきた彼らが得た物は、何事にも変える事のできない団結力

15世紀末、後のトーゴにポルトガル人が渡来。
19世紀まで奴隷の供給地とされていた。

1884年にドイツの探検家グスタフ・ナハティガルによって海岸地域が保護下におかれ、1885年トーゴ全域が「ドイツ保護領トーゴランド」と宣言される。
第一次世界大戦でドイツが敗戦し、イギリスとフランスによる分割統治となる。
1957年にイギリス領がガーナの一部として分離。

1956年に自治権を獲得し、フランス領地域が1960年4月27日独立、旧イギリス領も合流。
1963年のクーデターでシルバヌス・オリンピオ初代大統領が暗殺され、ニコラ・グルニツキー元首相が大統領就任。
しかし1967年1月、ニャシンベ・エヤデマ陸軍中佐がグルニツキー大統領を追放し、4月には自ら大統領就任。
1979年の民政移管に伴う大統領選でエヤデマ大統領が当選。

1991年6月に、実権はエヤデマ大統領からジョセフ・コクー・コフィゴー首相に移ったが、大統領派の軍が反発し首相官邸を襲撃。
12月に国民統一暫定政府を樹立。
トーゴ人民連合(RPT)による一党独裁から複数政党制へ移行後初めての大統領選が1993年8月行われ、エヤデマ大統領が当選。
1994年2月、議会選で大統領与党であるRPTが過半数割れし、野党の革新行動委員会(CAR)が第1党に。
エヤデマ大統領は4月、野党第2党であるトーゴ民主連合(UTD)のエデム・コジョ党首を首相に任命。
1996年8月の選挙では与党RPTが過半数を回復し、コジョ首相は辞任。
エヤデマ大統領は新首相にRPT党員のクワッシ・クルッツェ計画・地域開発相を任命。

1998年6月21日の大統領選でエヤデマ大統領が当選したが、野党陣営は不正があったとして反発。
1999年3月の総選挙では野党がボイコットする中、与党RPTが81議席中79議席を獲得した。
5月エヤデマ大統領は新首相にウジェーヌ・コフィ・アドボリを任命したが、2000年8月経済立て直しの遅れを理由に、議会が首相の不信任案を可決し、アドボリ首相は辞任。エヤデマ大統領は後任首相にアベヨメ・コジョを任命。

2002年8月、CARなど4つの主要野党は対RPT連合の結成で合意、与野党の対立が深まった。
エヤデマ大統領は2002年6月27日、「議会選に向けた体制準備」としてコジョ首相を解任、RPT党員のコフィ・サマ国民教育研究相を後任に任命。
議会選は10月27日に実施され、RPTが81議席中72議席を獲得して圧勝。
野党はボイコット。
ほぼRPT支配下の議会は12月30日、大統領の3選禁止事項を撤廃する憲法改正案を可決した。

2005年3月5日、エヤデマ大統領が病気療養のためフランスに向かう途中、心臓発作で死去。同大統領は、1967年のクーデターにより政権の座に就いてから死去するまでのおよそ40年近く政権の座にあり、アフリカ最長政権の大統領として事実上独裁に近い体制を敷き君臨した。

トーゴ共和国憲法では大統領死去の際の代行職には国会議長が就くとされているが、ナンジャ陸軍参謀長は「国会議長は外遊中であり、権力の空白を防ぐため」として、エヤデマ大統領の息子フォール・ニャシンベ設備・鉱業・電気通信相が代行職に就いたと発表した。
しかし実際は、トーゴ軍が陸海空全ての国境を閉鎖したため、国会のウタラ議長がトーゴ国内に戻れなくなっており、「権力世襲」「憲法違反」の措置であると西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)やアフリカ連合(AU)などの国際社会から非難され、2月25日にニャシンベ大統領は辞任。
議会のボンフォー・アッバス副議長が暫定大統領に就任したが、4月24日の大統領選でニャシンベが当選、5月4日より再びニャシンベが大統領の座に就いた。
しかし、選挙に不正があったとする野党側との対立で154人が死亡する流血事件に発展した。
その後、2005年6月、エデム・コジョ内閣が成立した。

2006年9月にはヤウォヴィ・アボイボ内閣成立、2007年12月マリ内閣成立、2008年9月、ジルベール・フォッスン・ウングボ内閣成立と続いた。

2010年3月4日、大統領選挙が行なわれ、ニャシンベ大統領と変化の力同盟党のジャン=ピエール・ファーブル総書記の一騎打ちとみられていたが、抗議デモがあったくらいで、流血沙汰には至らず、ニャシンベ大統領が60.9%の票を獲得したとの発表。